御香宮 堀会
さんぽみち
鳥羽離宮跡公園
伏見鳥羽にあった白河上皇・鳥羽上皇が造営した離宮。東に鴨川西は桂川に挟まれた池や沼の多い地域で、京の都に近く絶景の地にあった。約百八十町(180万平方メートル)という広大な敷地には南殿・北殿・馬場殿・田中殿・東殿などと呼ばれた大御所と、証金剛院・勝光明院・安楽寿院・浄菩提院・金剛心院などの御堂(寺院)が造営されそれらの周囲には池を中心とした大規模な庭園が造られました。鳥羽作道(とばのつくりみち)は、真っ直ぐ北へ朱雀大路にある羅城門まで続いています。
南区上鳥羽、伏見区竹田、中島、下鳥羽一帯にありました。鳥羽上皇の代にほぼ完成し、14世紀頃まで代々院御所として使用されました。
離宮とは皇居とは別に設けられた宮殿で天皇が譲位した後、上皇になってからの住居です。京都市にある桂離宮・修学院離宮だけが現存しています。
鳥羽離宮で最初に造営されたのが白河法皇御所の南殿であり昭和38年~40年にかけて発掘調査が行われた。昭和58年には南殿跡(現鳥羽離宮跡公園他)が「鳥羽殿跡」として史跡に指定された。この石標は国指定史跡「鳥羽殿跡」を示すものである。
所在地、伏見区中島前山町(鳥羽離宮跡公園南側)
白河天皇は、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を行った
《摂政》天皇が子供や女性の場合、天皇に代わって政治を行うこと。
《関白》天皇が大人になっても、天皇に代わって政治を行うこと。
《院政》天皇を譲位した後も上皇になり、その上皇が出家して法王になってからも政治を行うこと。
保元の乱は、1156年(保元元年)崇徳上皇と後白河天皇が皇位の継承をめぐって対立。
崇徳天皇側 《藤原頼長・源為義・平忠正》
後白河天応側《藤原忠通・源義朝・平清盛》
後白河天皇側の夜襲によりわずか一日で勝利をおさめる。この乱によってこれまでの貴族に代わって武士の力が強くなり武士の力で世の中を動かしていくきっかけとなる。保元の乱から、後白河天皇側についた平氏と源氏の間で対立が起こり、平治の乱へと続く。
大治4年7月7日 崩御《1053年~1129年》 77歳
天皇名:白河天皇(72代)
御陵名:浄菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)
陵 形:方形
所在地:京都市伏見区竹田浄菩提院町
保元元年7月2日 崩御《1103年~1156年》 54歳
天皇名:鳥羽天皇(73代)
御陵名:安楽寿院陵(あんらくじゅいんのみささぎ)
陵 形:方形堂
所在地:京都市伏見区竹田浄菩提院町
久寿2年7月23日 崩御《1139年~1155年》17歳
天皇名:近衛天皇(74代)
御陵名:安楽寿院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)
陵 形:多宝塔
所在地:京都市伏見区竹田浄菩提院町