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さんぽみち

桓武天皇(50代天皇)

 父光仁天皇、母高野新笠が百済系渡来人であったため、皇太子になれなかったが48代称德天皇を最後に天武天皇系の子孫が途絶えたために、父白壁王が光仁天皇として即位、のちに山部王から山部親王となり781年光仁天皇の譲位を受けて桓武天皇として即位しました。

 元正天皇から称德天皇まで55年間、天武天皇の皇族が引き継いできました。桓武天皇は東大寺や興福寺など、僧の仲には贅沢な暮らしをむさぼり、政治に口を出してくるため、奈良の仏教勢力と縁を切ろうと東大寺、興福寺を奈良に残したまま山背国長岡の地に遷都することを決めました。

 784年(延歴3年)桓武天皇は長岡京造営を進めるが、785年(延歴4年)藤原種継が暗殺される。弟早良親王が大友継人、大友竹良に暗殺を指示した罪で、弟早良親王を淡路島に送るが途中無罪を唱えながら亡くなる。早良親王が亡くなってから桓武天皇のまわりでは不幸な出来事が相次ぐため、陰陽師に占わせたところ早良親王の怨霊と祟りとされた。それ以来弟早良親王の霊を祀り、「崇道天皇」の号を送りました。

 しかし桓武天皇は怨霊から逃れることが出来ずまた遷都を考える。長岡京の遷都から10年794年(延歴13年)山背国葛野群宇大村(後に山城国)の地へ。

 新しい都では怨霊に脅かされず平安に暮らせるようにと、平安京と名付けられた。平安京の地の選定には中国から伝わった陰陽道(風水)に基ずく四神相応(北に玄武・東に青龍・西に白虎・南に朱雀)の考えを元に行われた。都は唐の都、長安に習い碁盤の目状に区画されました。

 都の南の入り口に羅城門をそこから真っ直ぐ北へ朱雀大路(道幅85m)が3.7km先の朱雀門まで、朱雀大路羅城門の両側には、東寺・西寺が建てられそれぞれに五重の塔が建てられました。怨霊に対するおびえが平安京の遷都と壮大な事業を興し以後、1200年以上にわたる都が築かれました。

​ 桓武天皇は都を作る一方、陸奥の国では蝦夷征伐の最中、蝦夷との戦いは光仁天皇から30年以上にもわたっていました。

《第一次征伐789年(延歴8年)・第2次征伐794年(延歴13年)・第3次征伐801年(延歴20年)・翌年、802年降伏させる。》

延歴25年3月17日《737年~806年》 崩御 70歳

天皇名:桓武天皇(50代)

御陵名:柏原陵(かしわばらのみささぎ)

陵 形:円丘

所在地:京都市伏見区桃山町永井久太郎​

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