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さんぽみち

大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)

 後醍醐天皇(1288年~1339年)は、鎌倉幕府打倒を図ったが失敗、隠岐の島に流されるがのち脱出、足利尊氏、楠木正成など武士の力で1333年鎌倉幕府を滅ばし「建武の新政」を行う。

​《建武の新政=朝廷、天皇中心の政治に変えた。摂政、関白の位をなくし天皇が直接政治をすることにした。また天皇をやめた上皇が院政を行うことや、征夷大将軍が幕府を開いて政治をすることも禁止した。》

 鎌倉幕府を倒したあと、後醍醐天皇の側近、公家が優遇されたのに対して武士層が冷遇されたことによって、足利尊氏が光明天皇(持明院統・北朝)を擁立、後醍醐天皇側の楠木正成の兵を駆逐、建武政権が2年余りで崩壊した。

​ 京都を脱出した後醍醐天皇(大覚寺統・南朝)は奈良吉野に遷った。1336年《廷元、元年(北朝)・建武3年(南朝)》以後から南北朝時代が始まる。《京都の南にある吉野に拠点を設けたことから京都にあった北朝に対して「吉野(南山)の朝廷」から南朝と呼ばれた》

*北朝(持明院統)*第1代光厳天皇*第2代光明天皇*第3代崇光天皇*第4代後光厳天皇*第5代後円融天皇*第6代後小松天皇

*南朝(大覚寺統)*第96代後醍醐天皇*第97代後村上天皇*第98代長慶天皇*第99代後亀山天皇*第100代後小松天皇

​まで、南朝・北朝共に同じ時期に天皇が即位していました。

 南朝第99代後亀山天皇が、北朝第6代後小松天皇に譲位するかたちで合一を見る。1336年~1393年《明徳3年(北朝)・元中9年(南朝)》までの59年間の南北朝時代は終わる。しかし南北合一後も北朝と南朝の皇位継承をめぐり激しい争いが長く続く。北朝が正統とされていたが、江戸時代になると南朝正統論が出始める。

​ 1911年(明治44年)に明治天皇の裁断によって南朝が正統とされた。それを受けて南朝の子孫と主張して、自らを正統な天皇の後継者とする自称天皇が現れる。南朝が正当化されたことによって、《光厳天皇・光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇》北朝の天皇が歴代天皇の系図から除外された。しかし、現在の天皇家は、北朝の流れを汲んでいる。

御陵名:大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)

所在地:京都市伏見区桃山町泰長老

天皇名:北朝第2代 光明天皇   康歴2年6月24日崩御

《1321年~1380年》60歳

陵 墓:方形

天皇名:北朝第3代 崇光天皇   応永5年1月13日崩御

《1344年~1398年》65歳

陵 墓:方形

   *後伏見天皇 皇玄孫 治仁王墓(はるひとおうのはか)*

 応永24年2月12日没  《1370年~1417年》47歳

陵  墓:円墳

     崇光天皇の第一皇子(榮仁親王)の子(崇光天皇の孫)

     治仁王(伏見宮家第2代当主)

     榮仁親王が伏見宮家(世襲親王家)を創設。

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